少し前に読んだリリー・フランキーのインタビュー記事がやけに記憶に残っていて、昨日「積読(つんどく)タワー」の中から引っ張りだしてきてもう一度読んでみたのです。
『文章を書いていて良かったなと思うのは、お芝居に生きていること。僕は句読点にまでこだわって几帳面に書いてきたタイプ。なので、脚本のせりふにある句読点のリズムまで自分中に入ってくるんです。この監督は、ここで点を打つ人だなとか解釈してやっています。』
この数行を読んだだけで、あー、リリー・フランキーって超素敵だ、と思ってしまって、勢いあまって私が初めてリリー・フランキーの文章を読んだと思われる「日本のみなさんさようなら」をアマゾンで買ってしまいました。
古本しか出てこなかったので、多分絶版なのでしょう。神様が「買っておくように」って私にメッセージを送ってくれたとしか思えない。
話はそれるけれど、辻仁成の作品の中で私は「五女夏音」が一、二を争うほど好きなのですが、これも絶版みたいで悲しかったな。少し前に急いで中古の本を買ったのでした。
話を戻すと。
ふつう、ここは漢字で書くところだけれどこの場合は平仮名にしたい、とか、ここに句点を打つとちょっとわかりづらくて10人中1人にしか伝わらないと思うけれどその1人には直球で伝わる気がする(そして、私はその1人に強く伝えるほうを選びたい)、とか、そういうことが私にもよくあって、
もちろんプロの文筆家の方と並べて語るには恐れ多いけれど、句読点のニュアンスというのは前のめりで同意したい気持ちです。
言葉って、ほんとうに素敵で美しい。
そう思える「使い方」をしたいな、と思います。
自分から発せられる言葉で自分はできている。そう言い聞かせて、愚痴をあまりこぼさないようにしなくては。笑
Comments